もう1週間経つから、日経に某まんがが広告されたことについて、少し問題になったところから、話を始めて、最終的にはタイトルのところまで持って行けたらなと思ってエントリーを書く。
ヒトは不愉快な表現に出会った時に、不愉快だって声を上げるのは、個人の感情だから問題はない。なぜなら私はその表現を不愉快だと思うから、不愉快だと表明するというのは、筋が通っているし、そこに何か別のものが挟まれる余地もないからだ。翻って「なぜこの表現が自分にとって不愉快なのか?社会にとってはどういう意味を持つのか?」ということを考えるのは、とてもエネルギーが必要で、難しい。
それが一般的に許容される表現であればあるほど、自分がなぜ不愉快なのかを考えることが難しくなる。そしていろんな理由を考えても、論理が通らないこともあって、なぜ不愉快なのかはわからないけれども、不愉快と感じるという状態が続く。そうなってくると、自分が不愉快と思っているのに、なぜ世間の人はこれを許容しているのかということにもなってくる。
人間はたくさんいるから、自分と同じような感覚でいる人はいる。それが単一の問題であれば、ネット社会では探すことも容易い。それで仲間が見つかって、話をして、なんとなく共感できて、そこで納得すればいいわけだけれど、強いコミュニティというのは、大体クローズになって、外敵を作り出してさらに結束を作りがちだと思う。歴史的にみても、学生運動とかが自壊していく様相はこれに当てはなるのではないだろうか。
で、クローズしないで、なおかつ問題を掘り下げるという作業ができればいいのだけれど、そういうことをすべきなのが人文系の専門家だと思う。というか、そういうことをするために、人文系の価値があるんだと思うわけです。この問題でいうと、自分が不愉快に感じることが社会的に意味ある事なのか、それを論理立てて説明するのには、専門家の技術が必要だと思うって話。
話を変えて、「科学的」というのは2種類あって、繰り返し起こる現象を探求する科学の他に、1回しか起こらないことを探求する科学もあるんだと思う。ボクたちは前者こそ科学だと思っているけど、歴史とか哲学は後者で、コレもまた科学なんだと思う。例えば歴史は1回しか起こらない事象を研究する学問の代表例だと思う。そしてこれは両者をスパッと切り離せなくて、両方の立場を確認しながら学問は進んでいくんだと思っている。歴史学の中での、炭素同位体を用いた年代測定なんて、その代表例だと思う。深めるためには両者の科学がどうしても必要となってくるのは、専門家であればあるほど理解しているはず。
今回の広告問題のように、表現の問題を、個人的な快不快、良い悪いの範囲で話している間は、議論が噛み合わなくて当然で、なぜなら感情をぶつけてるだけだけだから、話の進みようがないと思うわけ。だから、早く人文知の重要性に気づいて、論理的に話を深めて欲しいなぁと思っているわけです。
ちなみに日経は「失楽園」とか「愛の流刑地」とか連載していた新聞だから、購読者層を増やすことを、一貫して真面目に考えている新聞だと思うんだけどね。







